胡蝶之夢

こんな夢を見たい

ちょっとした決意表明

ずっと心の中で引っかかっていたものがある。それはなんだっただろうか。時が流れ、こうして日々仕事場と寮を往復するだけで、変化の訪れようのない生活を思い入社3か月にして既に辟易している。

 

年齢。27歳になる年に就職。おそらく25を超えるあたりから、年齢に対する社会の目と、自身の自覚との乖離が現れる。周りは就職、結婚、出産など、「人生」のステージを進めている。自分が周回遅れになっていると気付いた頃には普通の方法では挽回出来ない。市場原理主義に則れば、「売れ残り」とラベルされる。

 

この生活、この人生を望んできたのか。そんなはずなかろう。大学院在籍中に就職活動はした。しかし内定0。進学に漠然とした希望を託した。どことなく漂う違和感は見て見ぬふりをした。今考えれば明解だ。自分が進められる研究なんぞたかが知れている。まともな研究者にはなれない。明確に自覚したきっかけはコロナウイルス情勢だ。研究室への立ち入りを制限された。それは自分にとって「解放」に感じられたのだ。

 

再び就職活動である。大手も製薬も、前年蹴られたことで気が進まない。というより既に募集期間が終わっていた。残りの求人を探す。中小企業、新規事業、技術系(特に分析)。当てはまった会社に入った。工場勤務の辛さは、せいぜい重いものを運ぶことと、夜勤が体に合わないくらいだろうと高を括っていた。

 

思っていたよりも辛かった。私にとって最も重要なことは、「誰と」働くかであることに気付かされた。院卒理系の眼鏡にかかったプライドかもしれない。人間は(これはあまりに一般化しているかもしれない)より等質な環境に自己を置くことを好む。高校、大学とセレクションされた後の人々は、知識レベルだけでなく形成された価値観や好奇心のレベル(どれほど深く知りたがるか、という意味)も一定水準以上である。

 

要するに私が求めている環境は、私より頭の良い人が多く、その人らと働ける環境だと思う。今の環境に無いと断定していることは自己の「傲慢」かもしれないが、興味の対象がかけ離れているとどうしてもそう思わざるを得ない。少なくともこの現場には、最新の知見やら発見やら発明やらは届かない。同じメンバーで同じ作業を繰り返すだけ。新しいことは限られる。退屈な仕事だということだ。

 

何をしたいのか。そもそも自分の中にあった、漠然とした「やりたいこと」は何だったのか。自分の本棚に、大学時代に購入した教科書が並んでいる。捨てたものも当然ある。なぜか残しているものもある。

 

夢の中で思い出したこと。高校の地歴公民の先生から突然「お前は政治家になれ」と言われた。無論なる気は無い。そもそもなれる訳がない。しかし自分の中では「公の役に立つ仕事」に憧れを抱いていたのだった。夢といえるものだ。それは、確か大学院1年の夏ごろまでは、そう思っていた。教科書は、公務員試験の科目に対応していた。

 

公務員にはなりたくない。なってしまえばどんな仕事を担っていても「公務員」だからだ。それに、安定を取った、だのエリート志向だの、はっきり言って自分の自己イメージとはかけ離れている。それでも自分の将来像に、公務員というキャリアは必要に思えてしまう。だからもう一度、真剣に考えている。

 

国家公務員総合職を目指そうと思った。その先にも退屈で変化の無い生活が続くかもしれないし、自分の思い描く環境も無いし、今より労働環境が劣悪であったとしても。それでも、過去思い描いていた「夢」に近づきたい。今の道では遠回り過ぎてたどり着かないかもしれない。決意表明とは、何のことは無い、「公務員試験に向けて勉強する」ってことだ。

 

ただそれだけのことに、自分は一つ区切りをつける必要があり、わざわざ決意しなければならない。27歳までに出来上がった自己評価を更新するには多少覚悟がいる。どうせ出来ないという思い込みを打ち捨てるには、覚悟がいるものだ。

 

美化された過去の光景ばかり夢に見るのはうんざりだ。変わらない限り、永遠に同じような夢を見せられるのだろう。だからちょっとだけ、自分の中の小さな夢を追いかけさせてくれ。